快適なフロアコーティング

家ってなに?大工さんはそれを「家」といいハウスメーカーはそれを「商品」という。 建築家はそれを「作品」と呼ぶが不動産屋の店頭では「物件」となりはてる。
家が木やガラスやコンクリートでつくられていると思うから間違いなのだ。 家はそれを注文して建てる人の“気“や“情“という、溢れたり流れたりするやわらかい建材を使って建てられている。
気持ちの“気“、感情の“情“だ。 内々の事情の“情“でもある。
希望という柱に、欲という梁がわたされ、夢と不安をこれあわせて壁が塗り上げられたりしている。 もしかしたら、その壁は見栄や世間体という筋交いで補強されているかもしれない。
家は、木、鉄、コンクリート、ガラスなどからなるものではなく、そのようにとてもやわらかい材料でできているので、時代の流れや風の吹きょうで、刻々とそのカタチを変えてきた。 家は生活の器ではない。

古い家が壊されるとき、人はなぜ感傷的になるんだろう?ぼくが、母の家の解体工事に立ち会ったときのことを話そうか。 それは穏やかな十月の朝だった。
からりと晴れ上がった深い青空を背景に、地下足袋をはいた職人さんたちが屋根に駆け上がる。 屋根から瓦が投げ落とされ庭で砕け、家中の窓や雨戸がはずされてトラックに積み上げられる。
つぎつぎと畳が持ち出され、母の家は見るまに裸になっていく。 住宅の構造を“スケルトン(骸骨)“と呼ぶのは言い得て妙だ。
表皮を剥がされ、梁と柱と壁だけになった家は、どこかうそ寒い“亡骸“のようだ。 大型のパワーショベルが庭に乗り込み、鉄の腕をふるいはじめた。
壁が崩れ、屋根が落ちる。 二階の床が抜けていく。
人生そのものだ。 軒、ベランダ、窓、間仕切。
いままで馴染んできた家の輪郭が消えていく…。 二階の洋間が消え、キッチンが消え、茶の間が消え、とつぜん裏のお宅の縁側が目に入った。
裏の裏のお宅の屋根、その向こうの新築アパート、そのまた向こうの山々。 今まで見えなかった風景が目にひろがる。
職人さんたちが一服している間に元母の家だった廃嘘に入ってみた。 元濡れ縁だったところから、元仏間に踏み込み、元天井を見上げると、元電線だったビニールのコードが垂れ下がり、あらぬところから青空がのぞいている。
北側の壁の一角に無傷で残っているトイレとお風呂場は、芝居が終わった舞台の書き割りのようだ。 一週間後…。
仕事から帰って現場へ行くと家はすっかり消えていた。 記憶を凝らして母の家を再現してみようと思った。

屋根の出、玄関の入り、窓の形、部屋の仕切りと空中に輪郭を描いてみたが、じきにおぼろげな点線となって夕闇に溶けていく。 ある事に気がついた。
世の中にはいろいろな種類の家があって…といっても、藁の家、木の家、レンガの家みたいな素材の話じゃない。 こんな家を思い浮かべてほしい。
延床面積四十坪、切妻屋根の二階建、白い壁の南面にバルコニーが張り出したモダンな木造住宅。 つまり、どこにでも見かけるごく平凡な住宅である。
不思議なのは、ニッポンでは、このどこといって代わり映えしない家の“呼び方“が、建築を請け負った“業者“によって大きく変わってくるので人は家をつくるとき、木造にしようか?鉄骨がいいか?やっぱりコンクリート?と頭を悩ませるが、けっきょく、住宅を買うというのは構造とか素材を買うことじゃなくてこの空間を買うということなんだ。 チクワを買うんじゃない。
チクワの穴を買うことなんだ。 家が消えたんじゃなく、家の側に包まれた空間が消えたんだ。
それぞれの業者の立場と思想性が正直にあらわれた、似て非なる名詞があてられるのだ。 動詞もまた面白い変化をする。

例をあげよう。 昔ながらに工務店の大工さんが建てるのは“家“である。
「同郷のよしみじゃねえか。 おたくが家ェ建てんなら、安くしとくぜ」なんて使われ方をする。
クリエイティブな建築家がつくる(創る、造る)のは“作品“だ。 「この作品の場合は、一般界における似非日常的空間概念を捨象し、特殊界の真性螺旋状的空間秩序を創造することで現代の数寄屋である脱近代的…」とか、建築家の方々がしゃべる言葉はなぜか分かりにくい場合が多いのだが、文字にすると漢字が多くて紙面が真っ黒になる。
ハウスメーカーの営業マンが売るのは“商品“だ。 彼らは会社から営業シールとしてさまざまなマニュアルが渡されているが、たとえば「商品知識マニュアル」なるものがあって、そこには「顧客に商品を説明するに際し、カタログ並の知識では信頼は得られない。
顧客以上の商品知識をもつことが…」なんていう微笑ましいアドバイスが書かれていたりする。 ついでにいえば、不動産業者が取引するのは“物件“である。
マンションや土地つきの建売住宅。 最近多いのは、建築条件付きの分譲地だ。
とりあえず敷地の図面だけ、とか思って電話したりすると「さすがお目が商い!この物件はじつはワケアリで…」なんて、白いクラウンを飛ばして、即、駆けつけてくるのはご存じのとおりだ。 彼らはいまだにバブリーな土地本位制。
その土地に建った家には“上物“なる蔑称が与えられる。 「まあ、上物は築二十五年以上ですから、評価額はゼロだと思っていただけば…」家は敷地と切り離されて空中浮遊し、使い捨ての消費財として遇される。

“家”作品“商品“物件““上物“家はだんだん抽象化され、記号化され、なんだかせちがらくなる一方だ。 身ぐるみ剥がされそうな気分になってくる。
住宅にあてられた四つの異なる名詞。 このそれぞれの呼び方の中に、現在のニッポンの家づくりのややこしさと貧しさの秘密が隠されているような気がしてならない。
家の眼あちらの住宅は「組積造」と呼ばれる石やレンガを積み上げた壁工法の家である。 はじめに壁ありき。
でも、部屋には空気抜きが必要なので穴を開けざるをえなかった。 これが、西洋建築における「風の穴」である。
で、この風の穴、上部に架けられるさまざまなアーチが発明されたものの、横幅が長くなればなるほど石やレンガが崩れやすくなる。 当然、穴は縦長に開けるほうがかんたんだし、理にかなっている。
一方、日本の窓は「間戸」である。 柱と柱の間の「マ」プラス薄い木でつくった建具の「卜」。
家のつくりが柱と梁で構成された「緋鯉鐙」だから、柱と梁があるかぎり開口部は横へ横へと自由に大きく広がれた。 というワケで、こちらの横に長い窓では左右引き違いの建具が発達し、あちらの縦に長い窓では上下開閉式の建具が定石になった。
ヨーロッパの住宅がアメリカへ渡り、構造材は石やレンガから木材へと変わった。 今でいうならツーバイフォー住宅。
この木の家の窓も美しい「縦長」で、石造りの建物の伝統を受け継いでいる。 ところが、そのアメリカンハウスをコピーしたメイドインジャパン住宅が一棟一棟表情をもっているという意見は正しい。

家も、眼で口ほどにモノを言っているのだ。 家の“眼“というのがどこかというと、“窓“にちがいないとぼくはにらんでいる。
住宅街を散策しながら、この“眼“に注目して付近の家を観察していると、なんだか恥ずかしそうな顔をして立っている家を見かけることがある。 それはたとえば、トンガリ屋根に煙突、壁に白いサイディングを張ったアーリーァメリカン調なる洋風住宅。
ジョージアン様式をコピーしたレンガタイル張りの洋館もそうだ。


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